2019年9月22日日曜日

古田織部について

今回は茶人なら知らない人はいない茶匠。古田織部について、まとめたいと思います。
This page shows about 'Furuta Oribe' who is the one of the most famous Japanese Tea ceremony Master.

1544年(天文13年)に産まれ、利休について茶を学び、極意を皆伝された安土桃山時代の人物です。本来は武士であり、次々と時の最高権力者に仕え、最後は切腹して72歳この世を去りました。利休と同じように権力に翻弄された悲劇の人でもあります。
利休の死後にその名声が高まり、利休に次ぐ茶の湯の名人と呼ばれました。
He was born in 1544. He studied Tea Ceremony by 'Sen-no Rikyu' and get all technique of him. He originally is Samurai and work for some supreme authority following the trend.He kill himself when he is 72 years old. He had been made a fool of by historical important people such as Shogun, same to Rikyu.
His fame rises after he has gone and he is known as second famous tea ceremony teacher.


また、陶芸にも秀でており、織部焼の名称を後世に伝えています。
利休が静中の美なら織部は動中に美を捉えたと言える。形態の面白さや色彩の素晴らしさは現代に通じ、今も愛され続けている。
And, he is well known for pottery. 'Oribe-yaki' is named  after him. Rikyu found beauty in 'Sei(stability)' and Oribe found it in'Dou(movement).

生まれは岐阜県本巣町。地元の人でも知らない人も多い。
He was born in Motosu city, Gifu prefecture(center of Japan). This is not known even local people.

古田氏は応仁の乱(1467~1477)前後に斎藤氏と共に美濃下向して、本巣に城を構えた。
Furuta family had gone to Mino region and built the castle with Saito family around Onin no ran (1467~1477).
権現山に山口上、少し下った所に元城、その隣にある裕向(いこう)山は後に斎藤道三が山城を築いた。
山口城と裕向山城は兄弟のように肩を並べて往年は聳えていた。

本巣は美濃から北陸へ通じる要衝の地であり、古文書に寄れば源頼朝の右腕として鎌倉幕府の創設に貢献した梶原景時また往昔、山口城主であった。

重足の子織部は幼名を左介と呼び、17歳の時桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長に士官する。織部の人となりは、幼少期の激変の時代を背景として、豊かな感受性を持つに至る。

まず学芸としての素養は山口の"祐国寺"で、学僧とも言われる住職より厳格な学修を受け、また美術工芸に造詣深い和尚に連れられて、斎藤道三の裕向山城下にあったと伝えられる窯場で、粘土遊び、また当時の山口は根尾川の湊であり、薄墨桜で有名になった根尾谷から流されてくる材木を筏に組み、揖斐川へ運ぶ、上流での魚採り、伝変は見渡す限りの柿畑で、その間を縫って遊んだ。

体格は小柄であったと推察されるが、乗馬が得意でしばしば遠乗りを楽しみ、その技量を買われて信長の使い番となったほどである。

17歳士官から信長が天正10年本能寺で明智光秀の謀反にあい不慮の死を遂げるまでの22年間、青年としての織部の人間形成は織田信長による物であった。

信長が持っている革新性、科学性、合理性、経済性に加えて、織部は創造性、芸術性をもって安土桃山時代を日本のルネサンス時代とするのに大きな役割を果たした。

織部は信長の口添えにより1569年、26歳の時に中側瀬兵衛の妹、仙(せん)12歳と政略結婚をする。

そして、織部が信長の側近、使い番から大寒となり、西の岡に新居を置く。近くに長岡天神の立派な社があって、織部はここで約10年あまり生活をしている。天神とは、菅原道真の神号で、家紋は梅花文とする。

織部焼に多く用いられている梅花文との関わりを考えるだけでも興味は尽きない。

さて、織部がその才能を思う存分に発揮するのは、豊臣秀吉の許で織部正(おりべのかみ)35000石の大名に列競られたときから、秀吉が没するわずか10年あまりの短い間で、織部42歳から55歳に至る期間である。

この時代は戦国時代が収束して、市井は平和を押下、折柄のゴールドラッシュに経済繁栄を迎え、豪華絢爛。辻が花染めの服飾、カラフルな食器、黄金の茶室、歌舞伎の誕生という状況を背景に、登り窯という生産効率の高い設備と相まって美濃焼は最盛期を迎えた。

秀吉が没した慶長3年(1598)織部の実父・重定が殉死する。こうして、織部も家禄を長男の重嗣にゆずり、織部助を名乗り茶湯三昧の生活に入る。そこで織部は大徳寺111世の春屋宗園禅師につき参禅し、道元禅師の"正法眼蔵"にしたしみ、平穏な生活に入っていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの債に徳川家康の依頼をうけ、再び表舞台に立ち二代将軍秀忠の茶道指南役となる。家康との関係がギクシャクするのは、家康が自分の余命を考え豊臣家の討伐を決意する方広寺の鐘明事件以降のことになる。

一方、織部は豊臣秀頼の成長と共に慶長17年頃から豊臣側の和平派である茨木城主片桐且元とくんで、徳川豊臣両家の平和共存を模索し、東奔西走している。しかし、それは家康の意に反して疑わしき人物とみられ、大坂夏の陣を終えると織部及び長男重嗣に切腹の上意が届いた。

こうして、慶長20年(1615)6月11日、一言の弁解も無く従容として師に着いたと伝えられている。続いて次男三男四男まで自刃し、五男のみ夏の陣で戦死しているため一家は断絶している。そして、織部の生涯は謎とされてきた。

織部の好む茶陶として、重要文化財の伊賀水指「破袋」が挙げられる。破袋の形は、形成中に形がうずくまり、その部分に縦の大きな亀裂が走った、いわば窯が作った造形美である。これに対し、「豪快でこれ以上の物は無い」と言った織部の感性は正に「かぶく」の世界で有り、また焼き物の常識を破った美意識とも言える。
織部焼はその土味、形、色、文様など多種多様ではあるが、決して違和感を感じさせない優れた焼き物である。

 「唐津窯取立由来書」によると、久尻(土岐市)の加藤景延が九州唐津に赴き連房式登窯を導入した。唐津城主寺沢志摩守(尾張出身)は、朝鮮侵略後、廃窯に等しい唐津窯を再興しようと美濃から陶工を招き技術指導をさせ、その見返りとして唐津窯の美濃築窯を許したと言われる。

織部は美濃窯にやってきて直接織部焼を指導したと言う仮設については、それを証明するような文献は見当たらない。出典は明らかでは内が、「近世日本窯業史」の中に、慶長15年(1610)古田織部正は名古屋城構築を命ぜられ、清洲城から茶屋を移築した。その時瀬戸と鳴海を訪れた。と言う記述がある。

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