2019年10月21日月曜日

常滑焼について

常滑焼というと急須などが想像されるが、茶陶も多い。常滑で焼かれたものはみな常滑焼と言われてしまうが、歴史的に見ると、釉をかけずに灰がかぶったものを高い温度で焼き締めた灰釉陶器(真焼)と言われる物が本来の常滑焼です。それがたまたま南アジアから琉球にかけて作られた南蛮というものに非常に似ていた。
薪の炎は還元火⇒中性火⇒酸化火となって炎の性格が変わる。
窯の温度は1250-1270℃くらいで、磁器に近い。

古常滑焼
常滑焼は、常滑市を中心として古くから作られている焼き物全般の名前である。平安時代末期には既に常滑を中心にして、知多半島の丘陵地に3000基もの穴窯が築かれていたという。この時代の物は「古常滑」と呼ばれ、作られたのは山茶碗や山皿、壷などだ。当時、焼き物を作っていたところは瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前・越前のいわゆる日本六古窯で、その中でも常滑が一番古く、しかも一番盛大だった。
鎌倉時代に入ると、製品は小型の物は少なくなり、ほとんど大型の甕(かめ)や壷で、常滑港から舟で全国に運ばれた。土は常滑付近の「山土」で、釉は雑木や松材を焚いた灰が還元した緑色の自然釉である。

室町・桃山時代
室町時代に入ると、窯は常滑地区に集まってきて、地下式の穴窯から半地上式の大窯や地上式の鉄砲窯が築かれた。これで空気の流通がよくなり、たくさんの酸素が供給されることから、生地も灰も参加されて赤茶けてくる。これらは備前とよく似ていて、常滑では「真焼(まやき)」と言っている。
真焼に対して、素焼きよりちょっと高い1000度前後の温度で焼かれた物を「赤もの」と言っている。製品としては、土管の短い形に焚き口をつけ、鍋や釜をかけるのに用いた焚きくどや、それに続けて煙出しの煙突の用をなした煙官などの、当時の農家の勝手道具の類いである。
常滑は、茶器とは無縁のように思っている人も少なくないが、この時代、常滑城主・水野監物守隆の作った水指が千利休に贈られ、「不織」と銘が付けられている。常滑焼茶陶の代表である。

江戸時代
江戸期に入ると、経済の繁栄に伴って、常滑の甕・壷の用途も広くなり需要も多くなった一方で、中期からは茶器の名工が多く現れている。終わりの殿様の御用の茶道具を焼いた人もおり、そうした茶陶の名品が、常滑市立陶芸研究所に今も所蔵されている。
こうきになると、連房式登窯が現れ、製品も真焼きや素焼きの土管・瓶・朱泥製品(茶器・酒器・火鉢など)が加わった

朱泥土
一般に、常滑というと朱泥の急須を連想する人が多いほど、常滑焼と朱泥とは深い関係にある。この朱泥製品に使われる朱泥土は、二次粘土と言われる田土だ。二次粘土は雨によって山が壊れ、流れて移動していって田土となったものである。流れている間に荒い粒子は落ち、非常に細かい粒子の粘っこい土となっている。対して、一次粘土の代表的なものが山土で、これは常滑の比較的鉄分の少ない土で、見た目には白っぽい色をしている。

明治時代
明治時代は文明開化によって、新製品が次々と生まれた常滑焼の発展期である。土管、甕、朱泥製品、植木鉢、火鉢、タイル、レンガ、陶彫作品など製品の種類も生産量も一挙に増加して、近代産業へと移っていった。

大正から現代へ
大正中期からは更に大発展をとげ、技術は休息に進歩して機械による大量生産となり、窯・製品の種類・質・生産額も飛躍的に伸びていった。
終戦後は生活の変化から、火鉢と甕が姿を消し、土管も少なくなった。反面、急須と園芸鉢が大量生産されるようになり、またタイル、衛生陶器、建築陶器でも日本有数の大生産地となっている。


以上の用に、約900年前に興った常滑焼は現在まで受け継がれている。市内瀬木町にある常滑市民民族資料館には、縄文から中世までの発掘品を中心とした常滑窯業史が紹介され、国指定重要有形民俗文化財である「常滑の陶器の生産用具及び製品」のうちから、約300点が展示されていて興味深い、また陶磁器会館を中心とした「やきもの散歩道」を歩くと、現在も息づく焼き物の里が実感できる。

《参考文献》
村上正名著「やきもの古窯めぐり」 雄山閣出版
沢田由治著「わかりやすい常滑やきと つくりかたのいろいろ」 常滑市立陶芸研究所
常滑市民族資料館資料

風炉・薄茶・運び点前

①茶碗の右上の方を持ち、飲み口が膝の方へ向くようにして下に降ろし、「一応仕舞う」 旨の挨拶をします。
②右手で茶巾を取って、茶碗の中へ、続いて茶筅を取って、茶碗の中に入れます。
③帛紗を捌きます。捌いた帛紗は左膝の上に預け、右手で茶杓を取ります。
④身体の前で、茶杓の先の茶を拭くために、上下の面をふいてゆき、先まで拭いて、一旦裏返して、裏面も拭い、帛紗を膝の方へ戻し、茶杓を茶碗の上に戻します。
⑤帛紗を建水の上にして、1,2度軽く叩くようにして帛紗の茶を落とします。
⑥右手で茶碗を持ち上げ、左手に持ち替えて、畳の中央の左側へ置き直します。
⑦右手で茶器を持ち、茶碗の右横へ飾り合わすように置きます。
⑧水柄杓で柄杓を持ち、茶碗の右横へ飾り合わすように置きます。
⑨その柄杓を左手に持たせ、釜の蓋を持って、釜の口へ著せます(あらわせます)。

2019年10月20日日曜日

東山荘

名古屋市瑞穂区、桜の名所山崎川のほとりで広大な敷地の中にある東山荘は、緑の別天地であり、是非訪れるべき場所です。

ここは錦布商の伊東信一氏の別荘で、山荘の意味で伊東氏自身が命名されたと言う。
氏は茶道の好みを活かして大正元年から10年あまりをかけて築造されたが、昭和11年に名古屋市に遺贈された。一時は市長公舎となったこともあったが、遺贈者の志を活かすため、昭和43年から再び市民に開放されたという歴史を持つ。

茶室は二室ある。
東丘庵は、玄関近くにあり、寄付にも当てられる。
広さは6畳あるが、そのうち1畳は原叟床(げんそうどこ)になっている。床の間の南側に茶道口があり、逆勝手で台目切に作られている。茶道畳横(南側)は4寸四方ほどの連子窓形式になっていて、その東側は3尺2枚の襖が入っている。床の正面にも3尺2本の襖が入り、これらのいずれかが客の出入り口として利用される。
また、床の北側には大きな墨跡窓があり、その手前には9尺4本挽の雪見障子があり、明り取りの用をしていて、その外は縁側になっている。

東丘庵の南側に書院の間があり、12畳半と次の間10畳の2部屋の3方に縁が巡らされている。その前に広がる本庭園は、正面に蓬莱石と春日灯篭を配して、流れに蹲(つくばい)を据え、縁先には手洗いの鉢前が組まれている格調高い庭になっている。

12月の茶事

12月の茶事と言えば、忠臣蔵、茶筅売り、歳暮、餅搗き(もちつき)、年忘れなどのテーマが考えられます。
茶事では、亭主の訴えようとするところを道具組などで客に伝えることが大事ですが、その訴えをオーバーにしすぎると、"茶番(狂言)"となってしまいます。
俳句で言う、「言い尽くして何かある」と言う物で、今日の道具組から、何かを感じ取って頂き、後はその人達がそれぞれにその思いを膨らませて頂いた方が趣向が活きるというものです。

義士釜の例としては、昭和14年12月に催された義士釜から、具体的な例を取り出せます。
掛物は大石内蔵助 の筆になる消息文があり、炉縁に内蔵助の山科の陰宅であった邸内の五葉の松で作られた物で囲まれています。
水指は信楽で、銘は領国とあって、吉良家の所在地。茶入れは古備前で銘を三つ巴と如心斎が書き付けている品で、討ち入りの合図で使われた太鼓を表し、茶碗は錐呉器との事で、錐から鎗に思いをはせることとなります。

菓子にも、二つ巴のいわゆる「太鼓やき」なる駄菓子が取り上げられる。干菓子には「雪稿」と呼ぶものを振る舞っています。

2019年10月12日土曜日

掛け物について

掛物とは、掛軸、お軸、お床とも呼ばれ、古来より色々の書や絵が描かれています。一番古くはあらたかな経切に始まります。経切の代表的な物に聖武天皇のものと言われる経切があります。元、東大寺に伝えられ大和切とも言われる物です。字の大きさにより、大きい物を大聖武、小さい物を小聖武、中間のものを中聖武と呼び、漢字中心に書かれた時代の物です。
  やがて次の平安時代に入るとカナの発達で紀貫之、藤原定家などの能書家が排出します。また、同時に色々の歌集ができ、その中でも例えば貫之のの時代の古今集は最も古く出来た歌集で、後の見本になっています。元々このような歌集は完本で巻物か冊子に納められており、後に所蔵者や地名などで何々切と付けられています。そして、このような平安朝から鎌倉時代の初期頃までの小筆切を上代様と呼びます。

代表的な物として、平安の前期の歌人紀貫之を挙げます。紀貫之は、有名な寸松庵色紙、高野切、桂万葉などを伝えていますが、寸松庵色紙は桃山時代、佐久間将監が大徳寺竜光院内に茶室を設け寸松庵と名付け12枚愛蔵したことから名付けられ、道風の升色紙とともに、三色紙の一つに数えられる名筆です。高野切は歌切の中でも最も上手な切で元高野山に伝わった古今集の巻物です。
 藤原公任は和漢朗詠集の撰者でもありますが、有名な西本願寺本36人集の中の糟色紙、尾形切、岡寺切などの筆者とも伝えられる平安時代の中心的歌人です。ここで、西本願寺本の石山切について述べます。特に近年人気を博していますが、元は36冊有り、 そのうち昭和4年に貫之集下、伊勢集の2冊が分割され、その分を石山切と呼びます。石山切の名称は、西本願寺が古くは大阪の石山という所にあったとの由来です。料紙は極めて華麗で色々な色の唐紙や鳥の子の料紙には金、銀泥の下絵が施され、又切り継、破り継ぎの見事な色分けなど、書も流麗さることながら、料紙がそれ以上に華やかさを引き立たせております。当時、分割は増田鈍翁が中心になり行われ、各地に分散されました。

次に、古筆も華やかなりしころから鎌倉初期になると、懐紙というものが書かれてきます。代表的な懐紙は、西暦1200年の頃、後鳥羽上皇の御代に熊野の御行があり、かなり当時は幾度も御行され詠まれています。いわゆる熊野懐紙ですが、現存は非常に少なく、中でも若州酒井家西本願寺家、近衛家などのものが著名です。
 酒井家の分は大正12年に切断されていますが、後鳥羽上皇はじめ、お供の8人と1軸が巻物仕立でした。熊野懐紙は二つの題をつけ必ず二首詠まれています。酒井家の題は山河水鳥、旅宿理火で後鳥羽上皇のものは署名が無く、他供の人々は位署(位のこと)や自身の名前を書いて詠まれています。西本願寺のものは、遠山落葉、海辺晩望の題で11枚巻物仕立になっています。又、見返しには御行の折の年号と場所(切目王子和歌会正治2年11月3日)が押されています。 因みに、酒井家の御行は瀧尻王子のようで同じ年正治2年12月6日の時の物で3年後と言うことになります。

次に近年の画賛の元になっているのが、この鎌倉時代の歌仙になると思いますが、中でも秋田佐竹侯爵家所蔵の佐竹本36歌仙が最も優美で、国宝的存在になっています。大正6年佐竹家売立の折、巻物仕立で上下2巻36枚まとめて出され、京都の山本唯三氏所有の物となりましたが、2年後の大正8年にまた山本氏から出され、益田鈍翁中心にかくほうめんに分割された訳ですが、その中の斎宮女御画像が一番の高値で、益田家に収まりました。これは信実歌仙とも言われ絵は藤原信実、詞書ハ後京極良経の出合が条件になっています。
 次に、墨跡について考えてみます。色々な学会が各地で行われていますが、最も格調高いのが冒頭に述べた経切ですが、現在の茶会では余程のあらたまった法要茶会以外では使われません。中国の元時代や日本の古い臨済の名僧の墨跡も数少なく貴重な物です。これらの一行物を拝見すると言うことはほとんど不可能で、たいてい法語や院歌状などが中心です。
 我々の親しみやすい一行物は利休時代以降で、茶会ではほとんど大徳寺の和尚さんの墨跡が使われますが、特に江戸寛永の頃は大徳寺の傑僧が輩出されました。開山(1300年頃)は大燈国師ですが(宗峰妙超)、中でも古く有名な一休宗純は少々一行物が伝えられていて、諸悪莫作衆善奉行と、薫風自南米(松平家伝来)とがわずかに伝えられています。
 利休参禅の師古渓宗陳、春屋宗園寛永頃の宝室、江月、澤庵、清巌等、特に著名でまた少し後の弟子筋の玉舟、天室、江雲、江雪などの名僧が出現し、現在に至っています。禅語は一行等、茶会では季節で合わせますが、それぞれ厳しい意味が込められています。例えば明歴々露堂々、明らかに堂々と表すくもりのない心というように、厳しく追及されます。

今回はお軸の話でしたが、利休さんの一期一会の言葉のようにお茶、お道具共、同じ場所でも同じ物がその度ごとにそれぞれ違ったように感じられ、それでこそまた楽しいとも言えるでしょう。

堀田家住宅 茶室

愛知県津島市は、名古屋の近郊の中でも戦火を免れているので古い町のたたずまいを今に残していて、屋根の「うだつ」もあちこちで見られ、落ち着いた雰囲気がある。

「堀田家住宅」も「うだつ」が見られる貴重な屋敷で、津島神社と天王川公園の間に位置する。昭和48年に県道拡幅工事のために西へ60m移動し、現在の場所に落ち着いた。
 建築は江戸時代中期、正徳年間という。昭和53年5月に国の重要文化財に指定された。

屋敷の置く、書院に続いて建てられている茶室は2畳畳題目で、屋根は片流造銅板葺になっている。床は東南に向いていて床柱、中柱ともに赤松で、床框(とこがまち)は北山杉の入節である。床柱の左脇に1尺5寸ほどの踏み込み板が有り、そこに給仕口がある。給仕口のすぐ裏が水屋だが、入り口が開きになっているのが珍しい。天井は全体に平天井であるが、押さえに太めの竹が用いられているのも侘びた風情とみられる。

この茶室と、付属する坪の内露地庭は、堀田家6代当主友之と交流のあった久田流6代家元の宗参の設定と伝えられていて、18世紀後半の物である。

貴人口の脇に竹製の刀欠けがあるが、二本の柱で作られているのは非常に珍しい。

堀田家の初代は福島正則に中小姓として仕えたが、慶長5年に正則が広島へ国替えになり、故郷の対馬に戻り、家を構えたという。子孫は後に酒造業で成功を収め、更に金融業や新田開発を手がけ、尾張藩の寺社奉公行所御用達を務めた。茶室脇に刀掛けがあるのも、町人とは言え名字帯刀を許された土地の名手であったからである。

商家の面影は大戸口を入った「みせ」やその置くの「みせざしき」「こみせ」に色濃く残っていて、時代劇を見るようで面白い。現在は津島市教育委員会が管理しているので修理などの手入れが行き届いていて古さを感じさせない。


小林如泥

小林如庵は出雲国の藩主松平治郷につかえた指物大工小林安左エ門のことである。
藩主春里は不味と号し、茶道不味竜の始祖及び大名茶の確立者として知られる殿様である。

藩主治郷が年頭の茶会に生竹の茶杓を使うことを常としていたのだが、茶杓は先を火であぶって曲げるので生竹だとどうしても先端だけが変色して青みを失ってしまう。治郷が丸ごと青い茶杓を欲したので、如泥は、竹藪の多い道筋を丹念に見て回り、竹の間借りぶりが自ずから茶杓に適した物を探し出し、茶杓に仕上げた。如泥の目の確かさと材料選択に対する心のいれぶりを表した「青竹の茶杓」と言う逸話である。

自然の力に抵抗しない精神を表しているとも言える。

国焼茶碗

熊川茶碗は、朝鮮の釜山の近くの港の名前、熊川が始まりとされています。全体にシミが浸透し、形はマルク、口辺の端反り(曽於川に開く意味)になり、高台は円外、細かなチリメンジワがあらあらしくあり、また、どっしりとして力強い印象があります。
そして、見込みには鏡と言う、丸い円があり、小円ほど好まれるところで大事な約束です。上品な本手の真熊川、やや荒々しいがシミ等十分な景色の鬼熊川の二種類があります。

粉引茶碗は、時代が古く、1400年代頃に伝わったとされています。粉引の意味は、全体があたかも白い粉をかけたようであるところから呼ばれています。
形は椀型で整い、また、白釉の中に1か所三日月形の釉切れの火間と呼ばれる所が大事な見どころです。三井家の三好や畠山美術館の松平等が代表的なものです。また、酢次と言って、茶碗の片方に口がついている手がありますが、これは昔に名が示す通りお酢や汁を入れた容器が茶碗に取り入れられた名残です。

御所丸茶碗は、古田織部の好みのもので、釜山近くの金海窯で作られて、朝鮮征伐の時、島津義弘が御用船御所丸で運び秀吉に献上したことからこう呼ばれています。全体に沓形でふところ大きく外に張り、ところどころにヘラ彫りがあって高台は必ず五角か六角になっています。釉菜が白釉の中に赤身の御本ぐすりが現れている御本御所丸の手や、あたかも黒織部を想像するような黒刷毛の手があります。

美濃焼は、桃山時代からのもので、志野、織部、黄瀬戸に分けられます。志野茶碗は形は非常に豪壮で変化に富み、どっしりとした大ぶりのものが理想です。肌はすべすべしてやわらかな柚肌で、赤味の中に豪快な橋、山、草花等いろいろの鉄絵をよろこび、土はボグサ土と呼ばれるねっとりしたやわらかい土が大切です。高台は二重の椎茸風、付高台、このような約束が大事なところです。

織部焼きの名前は、古田織部の考案によって呼ばれています。全体沓形で黒地に様々な白抜きの絵を大変喜びます。絵も色々で、まがき、うろこ、市松、草花、片輪車など多くあります。土は志野と同じくやわらかさが大切で、高台まわりには透明にひかる光沢のあるみづぐすりがかかり、高台も変化が必要です。丈八などの窯印があるとより一層良いです。織部茶碗は絵模様が奇抜なので利休好みと異なり戦前の茶事にはあまり好まれず、懐石の手鉢などに使われました。

黄瀬戸は、土岐の久尻元屋敷地方で作られたものです。肌は油揚げのような光沢のある全体黄ぐすりがかかり、その中にタンパンと言われるあたかも光沢のある玉のような緑色のくすりを非常に喜びます。タンパンの種類も中から外へと抜けている抜けタンパンを特に好みます。高台脇には焦げというひっつきが大事な見どころです。ただ、元は懐石道具に作られたものが比較的多いです。

瀬戸窯は織部の形と異なり、まっすぐで半筒形が多く、釉はかせた黒一色でありますが、ところどころヘラ彫りが聞いて力強い雅味ある作りです。高台は茶碗を置いたとき、ほとんどあるかないかで低いのが特徴です。土見は少し堅い祖母懐土です。また、利休の好みに作られたので、天正黒と呼ばれたり、利休黒と呼ばれたり、黒楽と同じハサミで引き出すので引出黒とも呼ばれます。中でも利休所持で赤星家、益田家へと伝来した小原木や、酒井家に伝来した小原女は優品です。

楽茶碗について。創始長次郎は、桃山時代の利休のころまでさかのぼります。元々瓦職人でしたが、利休に見出され茶碗を作るようになります。形は利休好みで、徳川美術館蔵の三島桶(元利休愛蔵)の形や、瀬戸黒の形等に類似していて楽茶碗の原型をなしています。釉は全体かせ釉で、口造りはやや五岳風、重厚感があります。中でも、。大黒(黒)、東陽坊(黒)、針開(黒)、早船(赤)、木守り(赤)、臨済(不明)、検校(けんぎょう)(不明)、は長次郎七種と言われます。

三代ノンコウは吉左エ門、道入と称し、元伯宗且にかわいがられ、又、本阿弥光悦とも交遊が見られます。このノンコウの特徴は、全体玉虫のような光沢のある輝きが肝要で、黄釉幕釉、蝎蛇釉、白釉等見事に調和されています。又、楽は在印が重要ですが、ノンコウの作品は中々はっきりした楽印は数少なく大変貴重です。土見せ高台内に楽の字の中の白が自となっているのが特徴で、これを自楽印と言います。

このノンコウの釉がけ、作行きが後世に大変影響を与えています。中でも升、千鳥、稲妻、獅子、鳳林、若山、鵺(ぬえ)は、七種と言われ特に著名です。四代一入は朱釉、五代宗入は長次郎風のカセ釉が有名です。また九代ア入はノンカウの再現と言われます。尚現代十五代迄千家御茶道の主流を占めております。他の楽茶碗一入の弟子、大樋長左エ門が前田家の元金澤に赴かれ現在は十代目になられ尚盛んであります。

次に、萩茶碗にうつります。萩焼は、秀吉の時代朝鮮出兵の折著名な陶工の明人を連れ帰り萩で焼かせたのが始まりです。初代李敬の作品はあたかも高麗茶碗の如く、井戸、呉器、粉引等とよく似ております。釉は、白釉、シミ等処が大切です。又、桜高台と言って高台の形が輪花形になったものが喜ばれます。

唐津も同時代にやはり明人の陶工を連れ帰り作られたのがはじまりとされます。瀬戸唐津は風炉の時期にはうってつけの茶碗ですが、形は浅目で朝顔口、全体白釉で、口造りは鉄釉の刷毛が施され、大事な見所です。それゆえ別名口紅とか皮鯨と呼ばれます。茶人が大変好むお茶碗です。

又、むかしから数寄者の間では少々小振りですが唐津石ハゼ茶碗が喜ばれております。一方、近来は見るのも楽しい絵唐津が大人気で、茶碗の外、向附、鉢、皿等種類があり、絵も花鳥草花文と色々です。唐津焼はどのものにもいえることですが、土は赤土、高台内外チリメンジク、片薄高台と唐物茶碗の約束とよく類似し、みのがせないところです。

戦国時代も終わり、江戸の寛永から元禄になりますと、はなばなしい琳派の時代です。本阿弥光悦にはじまり光琳、乾山、仁清が現れ広間をはなやかに飾ります。さらに現在の大茶会の広間、席には、主流をなし侘びとは違った趣があります。又、焼物ならずそれぞれ掛物、会席道具、蒔絵まで範囲広く拝見できます。

一方、各大名の間でも文化がさかえそれぞれに御用窯が作られます。尾張藩は名古屋城の御深井丸ではじめられ、初代藩祖義直公、瀬戸祖母懐より陶工を予備作らせ祖母懐の印を用いた。又、明人陳元贇(ちんげんびん)が安南写しを作っています。後、十二代斉荘公が中心で御深井の印や賞賜の印があり、瀬戸風のものや、染付風の御深井釉が特徴になっています。

紀州徳川家は、茶道頭表千家初代江岑(こうしん)を招き盛んにし、特に十代藩主治宝公は、偕楽園焼の御庭焼を奨し楽十代旦入、保全など招き隆盛をきわめる。作品は、きらびやかな交趾写しや、青磁、染付写しもあります。

また、岡山池田藩の備前焼は古く鎌倉時代よりはじmりますが、幕末頃には、色絵備前、白備前と云った献上用のものが香炉などに見られます。

また、薩摩藩も遠州時代に名物茶器が作られていますが、江戸中期~高知頃献上サツマと言って錦手、赤絵、金欄手の豪華な焼物が作られます。

10月の茶事

10月は名残の季節です。

名残と言えば、秋の物侘しい季節のことを想像しますが、茶道において名残とは、茶壷の中のお茶が残り少なくなってしまい、名残惜しい時のことを指します。

去年の11月に茶壷の口を切って、使いだしたお茶がもう残り少なくなってしまい、この足後のお茶を挽いたらおしまい、と言うときに名残惜しさを感じ、この晩秋の季節に感じる名残を大切にするのです。ここでは、もう終わってしまったものを無理やりに出すことを重んじているわけではなく、最後の残り一つを大事にとっておいてお出しすることが大事と言うことになります。

料理で言うと、茶事には旬の物や走りの物を使うのが良いとされますが、もうすぐ口切の季節が来ますので、目新しいものは口切まで撮っておいて、残り物をうまく使うことが好まれます。

この季節、茄子、冬瓜、南瓜、恋も、レンコン、栗、銀杏、マツタケ、じゅんさい、カマス、ハモ、サバ、などがあげられます。

懐紙の使い方


銘々皿から菓子をとるとき
次客のある場合は、次客に次礼をして、銘々皿を膝の前へ取り込み、亭主に頂戴する旨のあいさつをして、
①懐紙を取り出し、一つ広げて、銘々皿の横の手前(正客は上座寄り、次客以下は下座寄り)に置きます。
②くろもじを菓子に刺し、左手をそっと添えて菓子を懐紙の上へ移します。
③両手で開始を身体の前へ持ち上げ、くろもじを持って適当な大きさに切ります。
④菓子を差して口へ運び、食べます。
⑤食べ終われば、くろもじの先の汚れを懐紙で拭います。
⑥銘々皿の上へ戻すか、あるいは懐紙で包みます。

干菓子器で干菓子が出された場合は、鉢と同様に取り込みあいさつした後、
①手で干菓子をとります。
②懐紙へと移します。
③干菓子器を次客へ送り、続いて懐紙ごと干菓子を持ち上げ、適当な大きさに割って、いただきます。

と言った手順で進めます。食べ終われば、懐紙は初めのように半分に折り、裁ち目の角を右手でもって、襟の間へ納めておきます。

茶碗の飲み口を拭うとき
①お茶を飲み終わると、茶碗を膝の前に降ろします。
②懐から懐紙を出します。
③左手で懐紙の左側を持ち、右手で外側の一枚を外へ折ります。
④その一枚を人差し指と中指で挟むように持ち、親指は懐紙の内側へ当てるように、この三指で懐紙を持ちます。左手を茶碗に添えて、右手の懐紙を茶碗の呑口に当てます。
⑤人差し指は懐紙の外側から、親指は内側から、口造りをはさむようにして、左から右へ呑んだ趾を一度・二度拭います。
⑥懐紙を茶碗からはずして、身体の前へ 持ち上げ、左手で懐紙の左横を持ち、折り込んだ右側はのばします。
⑦その懐紙を口唇へ持って行き、口唇の両端に、懐紙を当てるようにして口を拭います。
⑧再び懐紙を身体の前にして、二つに折りたたみます。
⑨右手で懐紙の裁ち目の角を持ち。懐へ納めます。

茶壺について

茶壺はかつては一国一城に値するほどに珍重されたときも有り、権力の象徴でもありました。今回は茶壺についてまとめます。


初期の頃
鎌倉時代末期には、鎌倉の地で、寺院境内や産地でお茶が盛んに栽培されていました。そして、その偉大には茶葉として贈答されていたが、まだ茶壺は用いられていなかったと推測される。元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が崩壊し政府が鎌倉から京都に移ると、風俗、風紀、習慣にも大きく変革が怒りました。茶事もこの頃から京都に流行した遊興となったと考えられる。

この頃から京都に於ける記録に茶事は頻出し、茶壺の後も見いだせる。そして、1340年の「師守記」には、茶壺に関して記されているだけで無く、正月の引き出物にふさわしいと考えられていたことが記されている。ここで、実用品としてだけでは無く、それ以上の価値観が既に与えられていたと想像されうる。

珍重されたのは唐物の茶壺です。それがいつ頃から日本に将来され始めたのかは不明ですが、鎌倉時代には既に相当量が渡来していたらしい。しかし、当時は交易品としてであって、茶葉の容器としてでは無いと推測される。
それが、14世紀前半になると、唐物茶壺は各種の茶道具の中でも建盞(※)と並んで、あるいはそれ以上に最も高価な茶道具と目されるようになりました。そして、15世紀初頭から和物茶壺の記事が現れており、上等の茶は唐物で、下等の茶は和物に詰められたと想像できる。
※中国福建省にあった建窯で、宋・元代に作られた天目茶碗

名物の始まり
応永24年(1417年)の「看聞御記」の記事に名壺献之…と言う記事がある茶道具の一つの器物に初めて「名」の文字が冠せられた初めての記録で、その頃には、多種ある茶道具の一種と考えられる以上に、ここに評価されるに至っていて、独立した個として緩衝されていたことが推測できる。応永24年は丁度茶の湯や生花が流行し始め能楽が大成したりした頃でした。そして、永享6年の「満済准后日記」には、「名物」と「銘」の記事があり、茶器の名物の記録はここから始まると言われている。

その後、これほどまでに重要視された茶壷は15世紀後半から16世紀前半までの100年間は分権にほとんど登場しなくなるが、衰退をしたわけではないという。それは、そのころ、応永年間に武家の邸宅が神殿造りに寺院建築様式を取り入れ、生活様式、寄り合い形式、習慣に変化が現れ、人々の寄り合う部屋、表の部分とにそれを準備する部屋、裏の部分とにくぶんされ、そしてそれとともに茶道具の認識にも変化が現れ、茶の準備をするのに用いられる茶壷は書院建築の床や棚、台子を飾る道具としては取り上げられなかったということになります。

茶壷鑑賞が隆盛に
天文年間、室町時代末期に至ると再び茶壷の記事が分権に見られるようになる。またこの頃より茶壷の口覆いや網が使用されるようになったという。そして、床に飾られる道具として、最も格の高い重んぜられるべき道具と観念されていたことが種々の文献から読み取れる。
その後は、茶会記の数も茶壷に関する記録も多くみられるようになり、茶壷鑑賞も隆盛を極めるようになる。
以前は、床の間の掛物があるときは茶壷は飾られなかったが、信長は両方を同時に飾ったり、一対の茶壷を飾ったりして、晴の道具として取り上げたという。信長なき後は秀吉によってますます格が上昇し、その所蔵が競われる対象となりました。

衰退の時期
しかし、慶長期に入ると急激な鑑賞の衰退がみられる。実用面からみると新しく焼成された国産茶壷や錫茶壷のほうが手軽で喜ばれたと推測される。また、文禄記に大量の「るすん壺」が輸入され衰退の原因となったと考えれている。これまで将軍家のものあるいは管領家と言った中世の大大名の独占物であった唐物茶壷は、信長や秀吉などの信仰階級の手に渡り、実用性ではなく将軍が所持していたという歴史によって価値が与えられた。
そして、絶対的権力を握った秀吉が自分の見出した茶壷にも銘を与え、新たな名物と言う価値を付加した。承認が利益を目的として開始したるすん壺の大量輸入は、のちに秀吉がその輸入権と利益を独占し、価値を沸騰させて新しく名物・唐物茶壷を創出したという。しかし、るすん壺の大量輸入によって混乱を招き、権威さえも失墜してしまう結果を招くに至り、秀吉も慶長3年にこの世を去った。

その後、唐物茶壷鑑賞は衰退し、格式のみ高い道具として、形式的な贈答品の代表と化し、幕府や大名の宝蔵に眠るに至ってしまった。

(淡交社発行の「茶壷」・徳川義宣著を多く参考にした)

 茶壺に詰める御茶は、八十八夜の前後頃から茶摘みが始められます。抹茶になる葉茶は、4月の上旬ごろから茶畑に一面に覆いをかぶせて日鉱を遮り、最終的には日光の遮光率を90%までして、茶葉の表面積を広げさせ、薄く、柔らかい新芽をつくらせます。茶葉の中では旨みとコクが熟成されていきます。
 摘み取られた新しい茶葉はすぐに沸騰した蒸気で洗いつつ蒸されます。蒸された茶葉は露を切りながら、すぐ冷却して荒くもみます。すると碾茶と葉脈に分かれます。
 この碾茶を半年間熟成させて今年の新茶として飲みます。

徳川時代の茶壺
 江戸から東海道を通って、宇治へ「採茶使」が来ます。宇治の茶師たちは、宇治槁の東詰に並んで御茶壷の行列を迎え、その後御茶頭取の家で茶詰について話し合いがされます。採茶使は数人を宇治に残し京都の宿泊所に泊まります。
 9日後採茶使立ち会いのもとで茶壺に茶詰が行われます。
 茶壺に入れる碾茶は紙袋に十匁ずつ入れてあります。これを半袋(はんたい)と言い習わしています。将軍家へ納めた記録では、茶壺の中に濃茶の半袋が20個、薄茶になる碾茶を5斤(1000匁=1貫)詰められています。
 茶詰は2日間で行われ、封印をされた壷は羽二重で包み、その上を綿入れの帛紗に包んで鍵の付いた木箱に納められます。この箱の裏には御茶入日記が貼付され、別に目録も添えられます。
 茶詰後6日目ごろから壷の荷造りが始まり、茶師が人足を使って渋紙、茣蓙(ござ)、細引などで防湿に気を使って荷造りをします。ここまで終わると、採茶使は茶壺を長棒の駕籠(カゴ)に納めて宇治を出発します。
 これが終わると禁裏や仙洞御所五葉の茶壺の茶詰が行われ、その後一般の茶詰が行われていました。
 この様子が童謡で「茶壺に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ」と歌われているのです。

 このように今では普通に手に入る御茶も昔は苦労して手に入れていたので、茶通という難しいお点前が生まれたのです。 

2019年10月8日火曜日

抹茶について

茶畑では、2月下旬から3月初めにかけて、翌日雨の降りそうな日を選んで肥料が撒かれる。寒い冬を超え、茶ノ木がいよいよ活動をはじめる。

4月上旬から中旬になると、新芽が小指の先ほどの大きさになる。すると、黒い覆いを被せて日光を遮ってしまう。この時の遮光率は70%。4月の下旬になると、さらに2枚目を被せ、遮光率を92%にする。五月の連休前後に更にもう一枚被せて遮光率を98%にもしてしまう。

覆いの下の茶の葉は光を求め少ない陽光でも効率よく光合成ができるように歯の表面積を広げ、薄く柔らかい新芽を作る。同時に葉の内部では「うまみ」と「コク」の成分であるテアニンが蓄えられ、香りもほのかに甘い「覆い香」と呼ばれる香りとなる。

こうしてわずかな光で育った母、五月中旬から摘み取られる。機械刈りをすると、葉を痛めるだけではなく、担任が挟みの鉄と化学反応して酸化し、品質が落ちてしまう。このため、茶道用のものはほとんど手摘みされている。

摘み取られた新芽は、葉緑素を葉全体に広げ、また茶の葉の発行を止めるために、沸騰蒸気で洗浄されながら蒸される。蒸すことでムラの無い、いつまでも緑色の茶の葉とすることができる。抹茶だけでなく、日本のお茶が美しい緑色をしているのは、この蒸す作業があるからで、紅茶やウーロン茶は発酵茶である。発行はすぐに始まってしまうため、蒸す作業はすくさま行われる必要がある。

蒸された葉は露きりと冷却が行われた後、乾燥されて荒茶となる。荒茶は冷蔵保管され、抹茶独特の風味を育てるために秋まで熟成される。抹茶と玉露に新茶がないのはこの熟成があるからで、もし新茶と謳われていても新茶率は半分もない、ただし、色と香りは新茶にはあなわない。

荒茶は精製工場で枝や茎、葉脈などぉ取り除き、切断、唐箕、再火乾燥、選別などの工程を経て純粋茶葉となる。そして、いよいよ挽き臼でひいて抹茶となる。

 挽き臼は真っ暗な工場内で行う。お茶は紫外線に弱いためで、これは製品となってからも同じことである。光や空気による化学変化がすぐにおこるため、一度にたくさん買わないのが鉄則。空気中の水分も吸ってしまう。冷蔵庫などに保存すると、リンゴなどの果物のにおいをすぐに吸ってしまう。

また、冬場は空気が乾燥して、静電気でダマになりやすい。茶こしで古い、ほぐして使うと味が違う。

そもそも抹茶は13世紀、中国から「養生の仙薬」として日本へ伝えられた漢方や腕ある。現愛では、医学的にも有効成分が解明され、がん予防、心臓病、動脈硬化、脳卒中、糖尿病、胃潰瘍、殺菌などにこうかがあると言われている。

抹茶は、煎茶などと違って葉の成分をすべて飲むため、栄養的にみると、ビタミンAのもととなるカロチンがニンジンやパセリの4倍、ホウレンソウの9倍も含まれている。また、他のお茶では得られない食物繊維が含まれているので、整腸作用もある。唯一ビタミンCが煎茶の方が勝っているのは、煎茶は新芽に覆いをせず要綱をいっぱいに浴びて育つからである。

お茶の木は粘土質の土地は向かず、水はけのよい土地が合います。お茶の木の寿命は30年くらいで、13年から25年くらいが最盛期になります。お茶の葉を収穫するときには、花を咲かせないように育てます。