常滑焼というと急須などが想像されるが、茶陶も多い。常滑で焼かれたものはみな常滑焼と言われてしまうが、歴史的に見ると、釉をかけずに灰がかぶったものを高い温度で焼き締めた灰釉陶器(真焼)と言われる物が本来の常滑焼です。それがたまたま南アジアから琉球にかけて作られた南蛮というものに非常に似ていた。
薪の炎は還元火⇒中性火⇒酸化火となって炎の性格が変わる。
窯の温度は1250-1270℃くらいで、磁器に近い。
古常滑焼
常滑焼は、常滑市を中心として古くから作られている焼き物全般の名前である。平安時代末期には既に常滑を中心にして、知多半島の丘陵地に3000基もの穴窯が築かれていたという。この時代の物は「古常滑」と呼ばれ、作られたのは山茶碗や山皿、壷などだ。当時、焼き物を作っていたところは瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前・越前のいわゆる日本六古窯で、その中でも常滑が一番古く、しかも一番盛大だった。
鎌倉時代に入ると、製品は小型の物は少なくなり、ほとんど大型の甕(かめ)や壷で、常滑港から舟で全国に運ばれた。土は常滑付近の「山土」で、釉は雑木や松材を焚いた灰が還元した緑色の自然釉である。
室町・桃山時代
室町時代に入ると、窯は常滑地区に集まってきて、地下式の穴窯から半地上式の大窯や地上式の鉄砲窯が築かれた。これで空気の流通がよくなり、たくさんの酸素が供給されることから、生地も灰も参加されて赤茶けてくる。これらは備前とよく似ていて、常滑では「真焼(まやき)」と言っている。
真焼に対して、素焼きよりちょっと高い1000度前後の温度で焼かれた物を「赤もの」と言っている。製品としては、土管の短い形に焚き口をつけ、鍋や釜をかけるのに用いた焚きくどや、それに続けて煙出しの煙突の用をなした煙官などの、当時の農家の勝手道具の類いである。
常滑は、茶器とは無縁のように思っている人も少なくないが、この時代、常滑城主・水野監物守隆の作った水指が千利休に贈られ、「不織」と銘が付けられている。常滑焼茶陶の代表である。
江戸時代
江戸期に入ると、経済の繁栄に伴って、常滑の甕・壷の用途も広くなり需要も多くなった一方で、中期からは茶器の名工が多く現れている。終わりの殿様の御用の茶道具を焼いた人もおり、そうした茶陶の名品が、常滑市立陶芸研究所に今も所蔵されている。
こうきになると、連房式登窯が現れ、製品も真焼きや素焼きの土管・瓶・朱泥製品(茶器・酒器・火鉢など)が加わった
朱泥土
一般に、常滑というと朱泥の急須を連想する人が多いほど、常滑焼と朱泥とは深い関係にある。この朱泥製品に使われる朱泥土は、二次粘土と言われる田土だ。二次粘土は雨によって山が壊れ、流れて移動していって田土となったものである。流れている間に荒い粒子は落ち、非常に細かい粒子の粘っこい土となっている。対して、一次粘土の代表的なものが山土で、これは常滑の比較的鉄分の少ない土で、見た目には白っぽい色をしている。
明治時代
明治時代は文明開化によって、新製品が次々と生まれた常滑焼の発展期である。土管、甕、朱泥製品、植木鉢、火鉢、タイル、レンガ、陶彫作品など製品の種類も生産量も一挙に増加して、近代産業へと移っていった。
大正から現代へ
大正中期からは更に大発展をとげ、技術は休息に進歩して機械による大量生産となり、窯・製品の種類・質・生産額も飛躍的に伸びていった。
終戦後は生活の変化から、火鉢と甕が姿を消し、土管も少なくなった。反面、急須と園芸鉢が大量生産されるようになり、またタイル、衛生陶器、建築陶器でも日本有数の大生産地となっている。
以上の用に、約900年前に興った常滑焼は現在まで受け継がれている。市内瀬木町にある常滑市民民族資料館には、縄文から中世までの発掘品を中心とした常滑窯業史が紹介され、国指定重要有形民俗文化財である「常滑の陶器の生産用具及び製品」のうちから、約300点が展示されていて興味深い、また陶磁器会館を中心とした「やきもの散歩道」を歩くと、現在も息づく焼き物の里が実感できる。
《参考文献》
村上正名著「やきもの古窯めぐり」 雄山閣出版
沢田由治著「わかりやすい常滑やきと つくりかたのいろいろ」 常滑市立陶芸研究所
常滑市民族資料館資料
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