2019年10月12日土曜日

茶壺について

茶壺はかつては一国一城に値するほどに珍重されたときも有り、権力の象徴でもありました。今回は茶壺についてまとめます。


初期の頃
鎌倉時代末期には、鎌倉の地で、寺院境内や産地でお茶が盛んに栽培されていました。そして、その偉大には茶葉として贈答されていたが、まだ茶壺は用いられていなかったと推測される。元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が崩壊し政府が鎌倉から京都に移ると、風俗、風紀、習慣にも大きく変革が怒りました。茶事もこの頃から京都に流行した遊興となったと考えられる。

この頃から京都に於ける記録に茶事は頻出し、茶壺の後も見いだせる。そして、1340年の「師守記」には、茶壺に関して記されているだけで無く、正月の引き出物にふさわしいと考えられていたことが記されている。ここで、実用品としてだけでは無く、それ以上の価値観が既に与えられていたと想像されうる。

珍重されたのは唐物の茶壺です。それがいつ頃から日本に将来され始めたのかは不明ですが、鎌倉時代には既に相当量が渡来していたらしい。しかし、当時は交易品としてであって、茶葉の容器としてでは無いと推測される。
それが、14世紀前半になると、唐物茶壺は各種の茶道具の中でも建盞(※)と並んで、あるいはそれ以上に最も高価な茶道具と目されるようになりました。そして、15世紀初頭から和物茶壺の記事が現れており、上等の茶は唐物で、下等の茶は和物に詰められたと想像できる。
※中国福建省にあった建窯で、宋・元代に作られた天目茶碗

名物の始まり
応永24年(1417年)の「看聞御記」の記事に名壺献之…と言う記事がある茶道具の一つの器物に初めて「名」の文字が冠せられた初めての記録で、その頃には、多種ある茶道具の一種と考えられる以上に、ここに評価されるに至っていて、独立した個として緩衝されていたことが推測できる。応永24年は丁度茶の湯や生花が流行し始め能楽が大成したりした頃でした。そして、永享6年の「満済准后日記」には、「名物」と「銘」の記事があり、茶器の名物の記録はここから始まると言われている。

その後、これほどまでに重要視された茶壷は15世紀後半から16世紀前半までの100年間は分権にほとんど登場しなくなるが、衰退をしたわけではないという。それは、そのころ、応永年間に武家の邸宅が神殿造りに寺院建築様式を取り入れ、生活様式、寄り合い形式、習慣に変化が現れ、人々の寄り合う部屋、表の部分とにそれを準備する部屋、裏の部分とにくぶんされ、そしてそれとともに茶道具の認識にも変化が現れ、茶の準備をするのに用いられる茶壷は書院建築の床や棚、台子を飾る道具としては取り上げられなかったということになります。

茶壷鑑賞が隆盛に
天文年間、室町時代末期に至ると再び茶壷の記事が分権に見られるようになる。またこの頃より茶壷の口覆いや網が使用されるようになったという。そして、床に飾られる道具として、最も格の高い重んぜられるべき道具と観念されていたことが種々の文献から読み取れる。
その後は、茶会記の数も茶壷に関する記録も多くみられるようになり、茶壷鑑賞も隆盛を極めるようになる。
以前は、床の間の掛物があるときは茶壷は飾られなかったが、信長は両方を同時に飾ったり、一対の茶壷を飾ったりして、晴の道具として取り上げたという。信長なき後は秀吉によってますます格が上昇し、その所蔵が競われる対象となりました。

衰退の時期
しかし、慶長期に入ると急激な鑑賞の衰退がみられる。実用面からみると新しく焼成された国産茶壷や錫茶壷のほうが手軽で喜ばれたと推測される。また、文禄記に大量の「るすん壺」が輸入され衰退の原因となったと考えれている。これまで将軍家のものあるいは管領家と言った中世の大大名の独占物であった唐物茶壷は、信長や秀吉などの信仰階級の手に渡り、実用性ではなく将軍が所持していたという歴史によって価値が与えられた。
そして、絶対的権力を握った秀吉が自分の見出した茶壷にも銘を与え、新たな名物と言う価値を付加した。承認が利益を目的として開始したるすん壺の大量輸入は、のちに秀吉がその輸入権と利益を独占し、価値を沸騰させて新しく名物・唐物茶壷を創出したという。しかし、るすん壺の大量輸入によって混乱を招き、権威さえも失墜してしまう結果を招くに至り、秀吉も慶長3年にこの世を去った。

その後、唐物茶壷鑑賞は衰退し、格式のみ高い道具として、形式的な贈答品の代表と化し、幕府や大名の宝蔵に眠るに至ってしまった。

(淡交社発行の「茶壷」・徳川義宣著を多く参考にした)

 茶壺に詰める御茶は、八十八夜の前後頃から茶摘みが始められます。抹茶になる葉茶は、4月の上旬ごろから茶畑に一面に覆いをかぶせて日鉱を遮り、最終的には日光の遮光率を90%までして、茶葉の表面積を広げさせ、薄く、柔らかい新芽をつくらせます。茶葉の中では旨みとコクが熟成されていきます。
 摘み取られた新しい茶葉はすぐに沸騰した蒸気で洗いつつ蒸されます。蒸された茶葉は露を切りながら、すぐ冷却して荒くもみます。すると碾茶と葉脈に分かれます。
 この碾茶を半年間熟成させて今年の新茶として飲みます。

徳川時代の茶壺
 江戸から東海道を通って、宇治へ「採茶使」が来ます。宇治の茶師たちは、宇治槁の東詰に並んで御茶壷の行列を迎え、その後御茶頭取の家で茶詰について話し合いがされます。採茶使は数人を宇治に残し京都の宿泊所に泊まります。
 9日後採茶使立ち会いのもとで茶壺に茶詰が行われます。
 茶壺に入れる碾茶は紙袋に十匁ずつ入れてあります。これを半袋(はんたい)と言い習わしています。将軍家へ納めた記録では、茶壺の中に濃茶の半袋が20個、薄茶になる碾茶を5斤(1000匁=1貫)詰められています。
 茶詰は2日間で行われ、封印をされた壷は羽二重で包み、その上を綿入れの帛紗に包んで鍵の付いた木箱に納められます。この箱の裏には御茶入日記が貼付され、別に目録も添えられます。
 茶詰後6日目ごろから壷の荷造りが始まり、茶師が人足を使って渋紙、茣蓙(ござ)、細引などで防湿に気を使って荷造りをします。ここまで終わると、採茶使は茶壺を長棒の駕籠(カゴ)に納めて宇治を出発します。
 これが終わると禁裏や仙洞御所五葉の茶壺の茶詰が行われ、その後一般の茶詰が行われていました。
 この様子が童謡で「茶壺に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ」と歌われているのです。

 このように今では普通に手に入る御茶も昔は苦労して手に入れていたので、茶通という難しいお点前が生まれたのです。 

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